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瑞相記(エッセイ)

上杉謙信は強かった?

武田信玄は強かった?

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April/24/2021

上杉謙信は強かった?

 前回の予告どおり、今回は上杉謙信について。武田信玄と同じく果たして上杉謙信も強かったのだろうか?義に生きた生涯とも言われたりする。また、侵略するための戦(いくさ)はしなかったとも。関東地区をどんどん併呑していった北条家を追い詰め、本拠地の小田原城まで攻め込んで取り囲んだとも言われている。戦国無敗の将とも。



 改名する前は長尾景虎といった。景虎は兄を廃嫡したような形になった家臣団に擁立されて家督を相続した。景虎17歳のとき、敵を打ち破る勲功を立てており、軍才を見込まれてのことだったと思われる。また、越後の国は、国土が広く平地も多い。そして、海岸線も長く海産物も獲れ、日本最長の河川である信濃川も越後を通って日本海に流れている。金山もあり、肥沃な国土と言っても過言ではない。だが、弱点が無いわけではない。人口が多く古くから栄え中心でもあった奈良~濃尾平野~静岡にかけての太平洋側へ赴くには、信濃や美濃の標高の高い山岳地帯を越えなければならず、また、道も細い為、先進の文物が手に入りにくい状況であった。さらには、冬は豪雪地帯となり、身動きできなくなる。人口が増加し易い土壌ではあるが、やはり弱点の豪雪地帯という点でその時代では、さほどの人口増には繋がっていない。だが、全国平均で言えば、決して少ないわけではない。

新潟

 越後を掌握した父の為景亡き後兄の晴景が家督を相続するが、再び各地の豪族が反旗を翻した。特に守護の血筋の上杉定実を中心とした勢力が実権を握った。現在、守護とは、全国各地に将軍が任命した国主であるとされてしまっている。実は違う。そもそも将軍は武士のトップでもない。武士のトップは別に存在していた。平安末期に武士が日本に登場したのだが、そのとき、武士のトップに東の夷狄(いてき)への備えを朝廷が依頼した。そこで、武士のトップが源頼朝を司令官に任命し、東に派遣したのである。そのとき、朝廷は過去に征夷大将軍という役職を坂上田村麻呂に与えた。そして、坂上田村麻呂は、関東から東北にかけて遠征を行った。武士のトップが司令官を決めたとき、朝廷は源頼朝に役職が付いていた方が職務を遂行しやすいであろうと考えたのであろう。もしくは、自分の配下という形にしたかったのかもしれない。因みに武士のトップは代々重要地域を拠点としていた。さらには、朝廷に治安維持などを依頼され、全国各地に自分の部下を派遣している。その際、当然自分の拠点の周辺には精鋭を配置している。守護とは関係ない話のようだが、関係ある。将軍は異民族の侵入と戦う部隊の司令官であるから、各地に派遣された武士たちと連携をとる必要が出てくる。そこで、将軍と各地で武士を束ねている武将(後の大名)との連絡役が登場した。当然、連絡役は各地で武士を束ねている大名が部下の中から抜擢して、将軍のいる幕府に派遣したのである。だから、守護は常に幕府にいた。たぶん、当初は「守護」という名称ではなかったと思われる。

坂上田村麻呂

 ところが、鎌倉時代、東ではなく西から外敵(モンゴル軍)が侵入してきた。そのような経緯もあり、また、天皇を守る意味も含めて、室町幕府は東ではなく西(京都)に配置された。当然、室町幕府の将軍も武士のトップが任命している。だが、時代の経過と共に武士のトップへの忠誠心が希薄な大名が全国各地に登場し、将軍も自身を武士のトップと宣言し始める。そのときに幕府に詰めている連絡役が将軍に近いことを理由に「守護」が各国のトップだということにしていったのであろう。連絡役を大名自身の兄弟など親族から抜擢して派遣した武将は、連絡役に国を乗っ取られることなく大名のままでいられたが、越後の長尾家のように親族から抜擢しなかった大名は国主の座を勝手に書き換えられてしまった。また、管領職や関東管領職は武士のトップではなく室町幕府の将軍が必要と判断して任命した役職だったと思われる。結局、元々は長尾家の家臣であった上杉家は、室町幕府のとき守護職ということで、守護代とされてしまった長尾家より上ということになり、さらには、関東管領職を将軍に任命してもらったのであろう。このような上下関係の逆転をよく物語るのは、越後の中心であり重要地点を本拠地としているのは長尾一族であり、一方の上杉家は中心地から遠く離れた所を領地として少し持っていたに過ぎない。このような例は戦国時代全国各地に存在する。また、国主の座を守護ではなく、他の部下に奪われてしまった者も出てきた。最上家は、その例に当てはまる。当初、最上家が東北のまとめ役として派遣されたのだが、重要地点を伊達家に奪われ、一時滅亡寸前まで追い詰められた。また、吉備(岡山)の宇喜多家も同じく部下(浦上家)に乗っ取られた。宇喜多家も最上家同様に中国・四国地方のまとめ約であった。だから、当時、中国・四国の最重要地である吉備を本拠とした。実は奈良・京都よりも吉備(岡山)の方がずっと歴史が古く長い。

蒙古襲来

 このような歴史をどこまで戦国大名・武将が受け継いでいたのか不明ではあるが、全く知らないわけはない。そして、将軍とはトップが任命した司令官であるから各国の国主より地位が上であることは間違いない。それで、景虎は将軍に対して高い忠誠心?を持っていた。景虎が若い頃は、まだ武士のトップと良好な関係を保っていたが、だんだん関係が希薄になり、最終的には敵対する。なぜ敵対に至ったのか?その時、三好・松永に殺害されたことで将軍の権威は失墜している。景虎が家督を相続した頃、将軍を持ち上げる大名は既にいなくなっていた。また、武士のトップの権威も失墜していた。そのとき、景虎はトップではなく将軍を持ち上げ続けた。義を重んずるのであれば、将軍ではなく本当のトップに忠誠心を示すはずである。結局、景虎は越後の家督を相続したときのように周囲に自分の実力を認めさせ将軍の座の禅譲を狙っていたのかもしれない。事実、関東管領職の上杉憲政は、周囲に説得され関東管領職を景虎に禅譲している。そういう人物は歴史上存在する。中国の三国志の劉備玄徳がそうである。決して自分からトップとは言わず、部下が持ち上げることによって蜀漢の皇帝になった。荒んだ世の中を正したいというのであれば、このようなやり方は、一番安全で極力血を見ないで済むやり方である。間違ってはいない。将軍に成り替わって世を正すという気迫は凄いことである。だが、本当のトップを蔑ろにしたというのは、どういうことであろうか?たぶん、トップが邪魔だからである。将軍が武士のトップという流れをそのまま継承したかったのであろう。要するに、景虎自身がトップに立ちたかったことの現れだと思われる。義を貫いたというのは疑問が残る。

上杉憲政

 もう一つ、義の武将ということに疑問が残ることがある。それは越中(富山)への侵攻である。越中へ侵攻し領地を切り取っている。関東の諸将も自分の配下に組み入れている。越中への侵攻は、将軍・義昭から上洛を促される前に侵攻している。不思議に思うのは、関東出兵の際、北条方の関東北部の諸城を攻めても自分の領土に組み入れることはやっていない。にも関わらず小田原まで攻め込んでいる。それだけのことができるなら、越中や能登に対しても切り取ることをせず、同じ対応をし京都に赴けばよかったのではなかろうか。その方が早い。その対応ができなかった背景には、やはり織田軍の強さを念頭に置いてのことであろう。もし、関西で織田軍と激突し敗北した場合、退路が自軍の領土でない場合、かなり危険を伴う。相手が相手なだけに慎重に事を進めていたのであろう。事実、能登・畠山氏の重臣の中に織田方の者がいた。とは言え、自分勝手な将軍・義昭の上洛要請のために近隣諸国に攻め込み切り取っている。そもそも、義昭が敵対した織田信長は荒んだ京都・奈良・近江・摂津などの治安を良好な状態にし、経済も活性化させた。民衆からの支持も圧倒的であったと言われている。即ち良いことばかりやっている。やれるやれないは別にして、謙信自身がやりたかったことではなかったか?荒んだ世を正す。だが、謙信は織田信長と敵対し交戦状態に突入する。本当に義の武将なのか ?将軍であればどんなヤツでも従わなくてはならないのか?

本当に義?

 義の武将という点について長文になってしまった。それでは、本題の「謙信は本当に強かったのか?」について書いていきます。謙信についてよく言われるのが、北条家や武田家との戦いで、勝利しているという点。まず、北条氏康が関東の諸城を攻略したことで、関東の諸将から援軍の依頼を受け関東へ出陣する。そして、関東を席捲し北条軍を本拠地の小田原城まで追い詰めたという。この話を聞くと、それは確かに軍神と言えるだけの活躍だと思ってしまう。だが、その当時の関東には有力な大名がいなかった。それもそのはず、辺境の地だったのだから。人口も少なく湿地帯ばかりであった。北条氏康がそれほど苦労することなく関東を支配下に収めることができたのもそういうことだからである。軍費も兵士数も武将の数も少なくて済む。それに北条氏康が攻略した南関東は、関東の中でも辺境の地。そもそも関東の中心は北関東であった。だから、謙信軍だけで関東の各地に散らばった北条軍を撃破できた。さらには、北条軍が退却し小田原城に集結した後は手も足も出せなくなった。小田原城が如何に頑強であったとしても、後の名古屋城・大阪城・江戸城・姫路城などとは比較にならない規模。確認はできないが、この時期の戦国時代の城は空堀ばかりであり、小田原城も空堀だったと思われる。水堀だったのであれば、現在、必ず証拠を示すモノ(言い伝えなど)があるはず。とは言え、その時期の城としては、かなり大規模で景虎も見たことのない規模だったのではなかろうか。景虎は包囲はしたものの攻めかかれば、損害も大きくなるとみたのであろう。結局、10日ほどで撤退している。このことから分かることは、第4次川中島のときの上杉軍VS武田軍のような全面対決は、北条軍とはしなかったと言える。ただ、文献によっては11万の大軍で小田原城を取り囲んだとある。まあ、それはでっち上げであろう。景虎率いる越後の軍勢は1万程度であるから、助けた関東の諸将の部隊を糾合したとしても11万はいくらなんでも多すぎる。11万もの大軍の兵站の確保もまず不可能である。さらには景虎がいくら城攻めが苦手と言っても、11万で取り囲んでいたのであれば、小田原城であっても落とせたであろう。ところで、11万人というと小都市一つ分の人口に匹敵する。

小田原城

 以上のことから、景虎が戦国最強というのは、この時点では疑問の余地が残る。だが、北条軍を小田原まで追い詰めたことは特筆すべき内容である。次に武田信玄との川中島での全面対決について。前回のエッセイで書いたのだが、信玄は決して戦上手ではない。しかし、恐ろしい戦い方をすることと勝つまで攻撃を続けるため、極めて厄介な相手と言える。恐ろしい戦い方とは、味方に犠牲を強いて勝利を掴むやり方である。また、負けても負けても繰り返し攻撃を続ける。だから、信玄は川中島へ5回も出陣している。3回目の出陣までは小競り合いで、4回目で全面対決をし、敗北した。しかし、越後を攻める姿勢は崩さず再び出陣している。第4次川中島の戦いで景虎は間違いなく武田軍に完全勝利と言ってもいいぐらい叩きのめしている。何度負けても攻撃を続行する信玄もさすがに5回目の出陣はしたが、それ以降越後を攻めることをしなかった。もちろん、駿河を手に入れるチャンスが到来したこともあり、越後への興味が後退したというのも事実ではある。だが、信玄は、謙信を警戒していたからいつものような無理攻めは一度しかやらなかった。ということを考えると謙信の強さは本物であったことが分かる。

川中島の戦い

 次は、織田軍との戦いである。謙信は上洛のために越中・能登を攻略した。しかし、あっさり攻略できたわけではない。能登の畠山家との戦いでは、畠山家の有力な重臣は織田家に従う意向を示していて抵抗も激しくなかなか落とせなかった。そのとき、畠山家重臣は信長公に救援を要請し、信長は柴田勝家を筆頭とする精鋭を差し向けた。だが、救援部隊は間に合わず、また、急いで出陣したためか、上杉軍の動向を掴み切っていなかった。結果、落城してから、しばらく経過した後に落城の知らせを勝家は受け取った。そこで、軍を引き返すことに決定。その引き返しているところを謙信に背後から急襲され潰走することになった。手取川の戦いという。戦いというより一方的に謙信が退却途中の織田軍の背後を攻撃したといったところ。この戦いを持って謙信は織田信長にも勝利したと言う人がいる。だから、最強だと。もちろん、信長は出陣していなかったし、その後の展開を見れば負けたのはどっちか分かる。このとき、信長は柴田軍にさらに滝川一益、羽柴秀吉、前田利家、佐々成政などの精鋭部隊を追加すれば勝てると見込んだ。この判断は正しかった。事実、この後、柴田軍を中心とした織田軍(前田利家、佐々成政、佐久間信盛など)が、能登の上杉軍に襲い掛かり、次々に各城を落としていく。さらに越中にまで進軍。ついには越中にある上杉家重要拠点の魚住城を攻囲した。あっという間に上杉軍を越後に追い込んでいった。上杉家攻略の司令官は柴田勝家である。総大将の織田信長公ではない。結局のところ、織田軍の一方面軍にやられてしまった。本能寺の変が無ければ越後の本拠地・春日山城も勝家に落とされていたであろう。はっきり言ってしまうと、上杉謙信より柴田勝家の方が上手である。

柴田勝家

 そのとき、上杉軍の重鎮の一人というか、筆頭の柿崎景家が謙信によって処刑された。柿崎景家は上杉軍の要である。処刑の理由は織田軍に通じたからだという。当然、織田家は様々な方法で敵を攻略する。調略も行う。越中にまで押し寄せてきている織田軍に脅威を感じるのは当然で、さらに筆頭の重臣が、その敵に通じたとなると、謙信自身かなり危機的状況になる。そりゃ斬るであろう。しかし、何故重臣筆頭の柿崎景家が織田家に通じたのか?荒んだ世の中を正している人と仲良くしたいと思うのは当然である。ところが、主君の謙信は、義昭などと手を組んで織田家と対決している。また、実は織田家は元々武士のトップである。元々将軍職は織田家が適任と思う者を外敵に対する司令官として任命し、仕事がやり易いように朝廷が征夷大将軍の役職を付けただけのことである。であるから、柿崎景家にとっては織田信長公は上司の上司の上司の上司ぐらいの立場である。結局、世直しをしている元々トップの人物から協力を要請されれば、まともな人ならまず嫌がらないであろう。そのような話を上杉謙信にしたのではあるまいか。信長公に従い共に世直しをしようと。それで、謙信はぶち切れたのではなかったか。結局、自分がトップである方がよかったのであろう。そんな謙信を見抜き、また身の危険を感じ、さっさと長尾家から逃げた達人の呼び声高い忍者がいる。「飛び加藤」こと加藤段蔵である。因みに加藤段蔵が逃げた先はやはり尾張であった。

柿崎景家

 上杉謙信のファンはがっかりしたであろう。また、武田信玄のファンもがっかりしたでろう。この2人のどちらかが、戦国最強であろうと思っていた人もがっかりしたであろう。だが、冷静に考えれば、それは間違いであることに気付く。通常、優れた軍は兵器の開発に余念がない。そりゃそうである。より強い兵器を持っていた方が勝つ確率がぐんと高くなる。優れた軍馬を育てることも同じことであるし、槍一つとっても試行錯誤する人はする。また、優れた指揮官は部下を死なせない戦い方を考える。軍馬育成以外、このようなことができなかった武田信玄はまるでダメな指揮官と言える。孫子の教えと真逆。一方、上杉謙信は、部下を死なせることが少なかったし、国主の座に就くときも信玄のように強引なことはやっていない。しかし、兵器開発においては、信玄と同じで軍馬だけである。とは言え、信玄とは違い、荒んだ世の中の状況を理解し、世直しをするために動いた。ところが、無能でもって 私利私欲の塊のような将軍・義昭を助けることに固執し越後を窮地に陥れ、有能な家臣を処刑してしまった。もし、上洛を果たすことができていたら、無能な義昭が天下に号令をかけるのは無理で、結局、謙信が天下に号令をかけていたであろう。それが、謙信の思惑ではなかったか。越後の当主である兄・晴景や関東管領・上杉憲政にトップの座を禅譲させたように。結局、義を旗頭にしつつも自分が天下に号令をかけたいという欲望が見え隠れする。私には無欲な人には到底思えない。無欲ならば織田信長公に従い世直しを一緒にするであろう。以上のことから、上杉謙信の力量は、間違いなく武田信玄よりずっと上だが、戦国最強はいくらなんでも言い過ぎである。前述したとおり、態勢を立て直した織田軍の一方面軍である柴田軍に負け続けた事実があるのだから。戦術・兵器・大儀・武将数・兵士数どれをとっても織田軍の方が上。実際、織田軍は野戦だけではなく攻城めも得意だった。滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉と対戦しても勝てなかったと思う。また、織田軍同様にその時代の最新兵器を駆使していた薩摩の島津軍も謙信より強かったであろう。イメージ先行武将の筆頭。

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April/18/2021

武田信玄は強かった?

 このページは、エッセイなので自由に書きたいことを書きます。音楽に関することだけとは限りません。今回は、戦国大名の武田信玄について。武田と上杉。巷では戦国時代最強の武将は、武田信玄だとか上杉謙信だとか言う人が結構います。本当にそうでしょうか?そのあたりについて、書いていきます。今回は武田信玄について。武田信玄は、若き頃より孫子などの兵法書を読みあさり、兵法に精通していたなどとされています。でも、数ある彼が行った戦(いくさ)を調べてみると、???となる戦が多いです。

武田信玄

 まず、武田家の家督を相続して間もなく、諏訪に攻め込みます。それも騙し打ち。自分の姉の嫁ぎ先である諏訪の大名、諏訪頼重を攻めて、降伏すれば殺さないという条件を提示して、甲府の武田信玄の元に呼び寄せます。しかし、信玄は諏訪頼重を殺しました。そして、そのまま諏訪を手中にします。信玄が諏訪を攻撃する正当な理由は何もありません。孫子をよく読んだ者であれば、そのような強盗のようなことはやらないでしょう。というのも家臣や民の信用を失うから。あまりにも卑劣なやり方。しかも、その殺した諏訪頼重の娘を自分の側室にしてしまう。表向きは、諏訪の姫を娶ることで、諏訪の正当な支配者という筋書き。でも、元々自分の姉が嫁いでいる訳ですから、婚姻関係にあったわけです。諏訪と強力して版図を広げたいのなら、諏訪頼重を殺す必要はなく、共に信濃の敵と目される勢力を滅ぼせばよかったわけです。要は諏訪の地をただ自分のものにしたいという理由以外になかった。後に、武田家は今川家、北条家と3国同盟を結びますが、今川家の参謀であった太原雪斎に武田は野党の群れだと評されています。

諏訪湖

 その後、信玄は、続いて北信濃に進行。しかし、北信濃の村上義清を攻め滅ぼすことができない。できないどころか、自分の育ての親であり且つ武田家の重臣No.1板垣信方とNo.2甘利虎泰を討ち死にさせてしまう。他にも大勢部下が討ち死にしている。そこで、信玄は武田家が以前攻め滅ぼした北信濃の小豪族・真田家のトップ真田幸隆を、「元の地をお前に治めさせてやる代わりに武田家に強力しろ」と誘いにかけます。で、真田家は選択の余地がなく、同意し信玄の部下になります。そして、再び信玄は北信濃を攻めます。その時、土地の者である真田家が様々な縁を使い、村上義清の部下を次々に寝返らせます。結局、真田が北信濃を攻略したようなものでした。戦国大名の中で、自分の大切な重臣を大勢討ち死にさせたのは、信玄ぐらい。

真田幸隆

 更に言うと、北信濃の村上義清の軍事力は、数の上で信玄より劣勢だったわけです。その当時、信濃には強力な大名がいなくて、多くの小大名や豪族で成り立っていた。だからこそ、信玄は信濃攻略を始めた。だが、ホントに弱い大名や大名とは呼べない豪族に勝利したのみ。村上義清は、戦上手ではあったが、後に上杉謙信に身を寄せてからは、目立った活躍を見せていない。まあ、それは、謙信が警戒していたということも言えるが。いずれにせよ、この時点で信玄は戦下手だったと言える。因みに軍事力で武田家は今川家より劣っていた。

村上義清

   信玄は、上野(こうずけ)の箕輪城も攻略している。今の群馬県の高崎市あたり。その当時、関東で発展していたのは、東京や神奈川ではなく、群馬や栃木であった。因みに北条は伊豆が本拠地だったから、静岡の大名と言える。それは置いといて。箕輪城には、関東管領である上杉憲政の家臣・長野業正とい城主がいた。この武将は非常に戦上手で、信玄が上野攻略の軍を発する度に眼前に立ちはだかった。そして、武田軍の攻撃を終生撃退した。信玄は、長野業正には一度も勝てなかった。武田家よりずっと小さい勢力なのに。この長野業正が亡くなった後、信玄は上野を攻略することができた。そのときの箕輪城側の城主は業正の子の業盛であった。業盛は、17歳で家督を継ぐことになった。まだ子供。信玄はすかさず箕輪城へ軍を発する。しかし、20歳前後の業盛にも1度撃退されている。その後、業盛23歳のとき、再び信玄は箕輪城を攻撃に向かい、今度は勝利し手中に収めた。一体誰が信玄は戦上手だと言い出したのか?どう考えても戦下手。

箕輪城祉

 そもそも上野攻略を考えたのも、越後を攻略できなかったから。越後を諦めて小勢力の上野攻略に切り替えた。では、越後侵攻の際の有名な川中島の戦いを考えてみよう。上杉謙信と武田信玄の全面戦争であった。有名な川中島の戦いは、武田と上杉の川中島での4度目の対峙で起こった。信玄は、かの有名な武田の軍師・山本勘助の考案した作戦「啄木鳥の戦法」を採用し上杉軍への攻撃を開始した。啄木鳥の戦法などと立派な名前が付いているが、要は挟み撃ちをしようとした。戦法というより作戦である。簡単に言うと、武田は軍を二手に分け、別動隊は上杉軍の背後にこっそり回り攻撃を仕掛け、上杉軍が慌てて前に出てきたところをもう一方の信玄いる本隊が待ち構えて、挟み撃ちにするというもの。だが、これは上杉謙信にあっけなく見破られた。軍を二手に分けた分、数が少なくなった武田軍の本隊に上杉軍は猛攻を仕掛けた。言うなれば全軍突撃である。その猛攻により、武田側はあっという間に劣勢に追い込まれた。背後を攻撃すべく移動していた武田軍の別動隊は、目的地に到着したが、いるはずの上杉軍がおらず、慌てて川中島へ急行する。その武田の別動隊が到着する前に上杉軍により、武田家の重臣がまたもや討ち死にする。信玄の弟・信繁と軍師・山本勘助などが討ち死にする。その後、別動隊が到着すると、形勢不利とみた謙信は、退却していく。上杉側の重臣は誰も討ち死にしていない。

川中島の戦い

 この戦いの後、信玄は勝ったのは武田だと言い、勝鬨を挙げさせている。どう考えても、上杉の勝ちである。別に上杉は重臣も領地も失っていない。戦死者の数も武田の方がずっと多い。たぶん、上杉軍が最後に引き上げたから、武田の勝利だと言いたいのであろう。上杉軍は、戦いに勝利してゆうゆう帰還しただけだったのではなかろうか。まあ、何はともあれ、信玄が戦上手と言うのは間違いなのがよく分かる。その後、信玄は織田信長公に打ち取られた今川義元の後を継いだ今川氏真を攻めることにする。信玄という男は、戦略というものを考えていたとは思えない。行き当たりばったりな動きを武田家はしているからだ。確かに今川氏真は凡庸な大名で、しかも今川家の部下も桶狭間で多く討ち死にしている。徳川家も今川家の支配から抜け出していた。だから、今川家は攻略しやすい。しかし、同盟を結んでいて、その恩恵に随分与ってきた。親の代から婚姻関係を続けてもいる。だが、信玄はそんなことはいつも無視する恐ろしい男である。で、あっさり攻め込んだ。だが、今川家を攻略できなかった。武田家の行動に北条家が怒り、今川家に見方したということもあるとは思うが。

駿河

 今度は、北条家と戦いを始める。もう無茶苦茶である。上野方面から南下して、北条家の本拠地・小田原城を攻めた。南下する途中、北条氏康の子供達、北条氏邦や氏照を撃破している。だが、それぞれの居城を落としたわけではない。野戦で勝利しただけ。結局、小田原城まで辿り着いたが、落とせず退却している。その時、北条は、北にいる氏邦、氏照の軍と南にいる小田原の氏康、氏政の軍で退却する信玄を挟撃することにした。だが、氏邦・氏照と共に北の退却路で武田軍を待ち構えていた北条綱成が、氏康・氏政の軍の到着を待たずに攻撃を開始する。これは、武田軍の決死の退却作戦が功を奏した結果ではあった。だが、やっぱり犠牲者を出している。退却戦の陽動部隊を指揮した武将が討ち死にしている。で、何とか信玄は退却に成功。孫子を知り尽くしていたというわりに、信玄はいつも危ない橋を渡っている。信玄の戦場での行動は、不可解なものが多い。で、結局、信玄は、武田家が今川領の東側・駿河を攻めるとき、西側・遠江の攻略を徳川家に持ちかけ、今川を武田と徳川で挟撃することにより、ようやく今川領の半分を手に入れることができた。

徳川家康

   ここまでくると、信玄らしいと言えるのだが、今度は徳川家とすぐに戦を始める。ホント危ないヤツである。戦下手ではあるが、勝利するまでどんな犠牲を払ってでも攻撃をし続ける。信玄とはそんなヤツである。結局、最後は信玄も討ち死にする。自業自得である。などと書くと、信玄が討ち死にしたなどと聞いたことがないと言う人がいるだろう。そのへんのことを少し。信玄は駿河を奪取したあと、徳川とやりあい、満を持して上洛を開始する。信玄は、その上洛の途上病死したとなっているが、あまりにも不可解である。病死するほどの病状であったのであれば、上洛の軍を指揮することなどできない。また、軍議・評定にも参加できまい。しかし、武田家は徳川家や織田家の家臣に間者を送り入念に寝返り工作をやっている。当然、信玄の指示である。武田家もトップダウンの指揮系統である。基本的に軍とはそういうものである。トップが寝込んでいたら、上洛の作戦は発動されることはない。戦どころではなくなるからである。

三方ヶ原古戦場跡

 だから、信玄はピンピンしていたはずだし、実際、徳川との三方ヶ原の戦いで全軍の指揮を執っている。では、信玄はどのような作戦で上洛を開始したのか?当然、徳川家を調略した。と思い込んだ。織田家の重臣にも調略の手を伸ばした。滝川一益も調略した。と思い込んだ。明智光秀だけは調略に成功したようだ。信長公は、その調略を逆利用した。武田家と徳川家の三方ヶ原の戦いは、武田が徳川に持ちかけた芝居。だから、打ち取られるような状況に追い込まれた徳川の重臣・本多忠勝は武田軍に助けられ無事浜松城に帰還している。その戦の後、信玄は徳川の浜松城を攻略することなく、西の織田領へ向って進軍する。そりゃ徳川は武田側に寝返ったと信じているから。信長公は、調略に成功したと信玄に信じ込ませ、武田軍を織田領内に向かってどんどん引き込んでいく。武田軍が岡崎手前まで辿り着いたところで、眼前に織田軍が待ち構えている。信玄はそこで戦うことを決意する。だが、背後に徳川軍が迫っていて織田・徳川の挟撃に合うことを知ることになる。それでようやく、信玄は、ここまでおびき出された事を悟ることになった。信玄や家臣たちは敵の懐奥深くに侵入してしまっている。結局、このとき、信玄は討ち死にしたと推定できる。実際、信玄は陣没したということだから。鉄砲で打ち取られたという話もある。また、重臣も相当数打ち取られていると思われる。なぜなら、その後、武田勝頼の代になって、すぐに織田家や徳川家と戦っていることが証拠と言えるであろう。そのとき参陣していた武将がいたら、織田・徳川との戦はしないであろう。あまりの戦力差を知っているから、戦を回避するよう勝頼に進言するはずである。だが、勝頼は戦を仕掛けまくった。だから、いわゆる長篠の戦いで討ち死にしたと言われる武田の重臣たちは、とっくにこの世を去っていたと思われる。要は、信玄と共に織田・徳川連合軍に打ち取られたのであろう。

織田信長

 あまりにも無謀な戦ばかりを行い、それでも何とか領地を拡大することができたために最後の最後に極めて無謀な行動に出てしまったということであろう。トップの力量、家臣の力量・数、兵士の力量・数、兵器の質、国力など全て上回っている相手に対して盲目的な全軍突撃を行ったようなものである。ホントに「孫子」を読んだのだろうか?「孫子」の有名なくだりに「敵を知り己を知れば百戦危うからず。敵を知らず己を知れば一勝一敗。敵を知らず己を知らざれば戦うごと必ず敗れる。」とある。要は自分より強い相手とは戦わず、己を磨き相手より強くなってから勝負を挑めというもの。結局、信玄は、この有名な下りの3つ目の文の内容を実践してしまったのである。約3000年前「孫子」を著した孫武は、自分の理論・戦術を春秋戦国時代の中国の「呉」の国で実践し、強大な隣国「楚」を打ち破った。その約1000年後、中国は三国志の時代に突入する。この時も軍師と呼ばれる武将たちは、「孫子」を必読していて、信玄のような無謀な戦いはしていない。自分が指揮している軍を単独で敵の領内奥深くへ進軍させる軍師などいなかった。逆に敵をそのような状況におびき出すことはやっている。次回は上杉謙信について書こうかと思います。こちらも過大評価されすぎ。信玄も謙信も色々と見る目が無さすぎる。信玄や謙信より九州の島津の方が強かった気がする。

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April/17/2021

紅茶とそれにまつわる話

 前回のエッセイでは、コーヒー関係の内容を書いた。で、今回は、紅茶にまつわる話をしようと思う。紅茶と日本茶の違い、それは、製造方法にある。原料となる葉っぱは、同じお茶の葉を使用している。詳しい製法は分からないが、紅茶は発酵したもので、日本茶や中国茶は発酵していない。で、紅茶の起源として、よく言われているのは、昔、イギリス人が中国でお茶を購入して、本国へ持ち帰る途中にお茶が発酵してしまったという話。イギリスへ持ち帰る方法は、もちろん、船なのだから、相当な日数がかかる。それで、自然に発酵したのだという説である。



 これは、デタラメだと思われる。もし、たまたま発酵したのであれば、その発酵してしまったお茶以外のお茶は、発酵していないお茶である。だから、イギリス人も元々発酵していないお茶を好きで飲んでいたことになる。ということは、発酵したお茶を飲んだ瞬間、これは偽物のお茶だと気付くであろうし、そもそも色が違う。であれば、そのお茶を売りつけた商人を厳しく追求することになるであろう。偽物と思った代物がこれほど世界的に普及するであろうか?紅茶を普及させたのは、イギリス人である。誰かが、話を面白半分で捏造して広めたとしか思えない。しかも、船で運搬する途中に発酵なんてするのだろうか?調べてみると、やはり、このような話は載っていない。中国では紅茶ではないが、半発酵のお茶「武夷茶」を作っていたそうである。それで、イギリス人がその武夷茶に改良を重ねて、現在の紅茶が完成したということが本当の話。しかも、昔インドではお茶は栽培していなかった。イギリスが茶の栽培をインドやスリランカで始めたのが、紅茶の産地となった由縁である。



 そして、お茶っ葉は皆同じ種類の葉を使っていたのだが、またまたイギリス人が、インドで自生しているお茶を見つけた。それが、今でいうアッサム種である。アッサム地方で発見したから、その名が付いた。アッサムティーは、茶葉の種類が違うのだ。デタラメをもっともらしく話して広めるヤツは古今東西いる。実は同じ遺伝子を持った輩である。日本にもいるし、イギリスにもいる。中国にもいる。世界中どこにでもいる。我々ホモサピエンスとは、先祖が違う。人類の長い長い歴史の中で交配が行われしまい、見た目がホモサピエンスにそっくりになった。実は見た目はかなり違うのだ。我々の先祖はアウストラロピテクスだが、彼らの先祖はネアンデルタール人。我々の先祖が進化していく過程で、様々な呼び名の原始人(例えばクロマニヨン人、北京原人など)がいるが、ネアンデルタール人だけは、別の種族で遺伝子の系統が違う。



 話が逸れたが、もう少し書こう。古代中国での有名な話を一つ。今から約2800年前、時の周王朝が分裂気味になり、群雄割拠の時代へと突入していく。いわゆる春秋戦国時代というやつである。この時代に現代でも広く知られた偉大な先生たちが数多生まれてきた。諸子百家と言われる先生達である。有名な人を挙げていくと、孔子、孟子、荘子、荀子、韓非子、孫子など。他にもいる。孔子の知名度が一番である。そして、諸子百家の先生達は自分の理論を書き残してくれた。孫子が著した「孫子の兵法」は、当時から現代に至るまで読まれ続けている。彼らは先生と呼ばれ、弟子もいた。孔子の弟子に孟子と荀子がいた。



   孟子はかの有名な性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えた。性善説は「人間は生まれながらに善である」というヤツである。そして、荀子の性悪説は、「人間は生まれながらに悪である」というヤツである。2人とも孔子の弟子なのだが、真逆のことを言っている。孟子が生まれたのは、斉の国。荀子が生まれたのは、趙の国。斉は覇権を握った国で、ホモサピエンスが多い。一方、趙の国はその当時、北方の異民族の鮮卑などと隣接していて、当時の中国の版図でいうと、北方に位置する。実は、当時、鮮卑や突厥などと呼ばれた歴代中国の敵だった異民族集団は、略奪を生業にしていた。それで、中国は万里の長城を築いたのだ。この鮮卑や突厥こそが、ネアンデルタール人の子孫である。もちろん、我々と同じ血も流れてはいる。だが、ネアンデルタール人の血の影響の方が強かった。で、彼らは中国への侵入を繰り返した。だから、中国の北方には、彼らの子孫が多った。ここまで書いたらもうお分かりであろう。孟子が生まれ育った地域にはホモサピエンスが多く生活していて、荀子が生まれ育った地域にはネアンデルタール人の子孫が多くいたのであろう。だから、孟子は性善説で、荀子は性悪説なのであろう。



 このように書くと、現在はどなっているのか?と思う人もいらっしゃるだろう。そのへんのことを少し書く。ネアンデルタール人の子孫たちは、常に中国への侵入を繰り返してきた。いつの時代でもである。侵入は様々な階級に及ぶ。一般市民の中にも進入するし、官僚の中にも進入する。その結果、ジワジワと王朝を乗っ取っていく。そして、腐敗がどんどん進行し、王朝が倒れ、新たにホモサピエンスの人が王朝を立て直す。その繰り返し。嘘のような本当の話。清帝国が乗っ取られてからは、ずっとそのまま国の上層部にいる。では、朝鮮は?朝鮮はもっと酷いことになっている。大昔に乗っ取られてから、ホモサピエンスが取り返すことができていない。そして、朝鮮から我々の日本へ大昔から奴らは侵入を繰り返している。因みに、大化の改新をやった中大兄皇子こと天智天皇は、当時、朝鮮との関わりを一切断ち切った。



 話が随分逸れてしまった。紅茶の話をしよう。全世界でコーヒーと紅茶、どちらが多く飲まれているかご存知だろうか?最近では、中国人もコーヒーを飲むようになったため、コーヒーの消費量の方が多いとは思うが、欧米でイギリス人が紅茶を好んでいることが、かつてはかなり大きく影響していた。とうのも、イギリスの国土は、かつて日の没するところがないと言われていたほど、全世界にあった。現在、イギリスから独立した国も文化や嗜好は、やはりイギリス人と似ている。もちろん、民族が同じだからということもあるだろうが、インドや香港のように人種が違う地域もある。かつてはアメリカ人も紅茶を好んで飲んでいた。というか、コーヒーはほとんど飲んでいなかったようである。そりゃそうである。アメリカ人のほとんどがイギリスから渡ってきた人ばかりなのだから。で、例のボストン茶会事件があってから、紅茶を飲まなくなり、代わりにコーヒーを飲むようになった。だからかつては、お茶を飲んでる人の数の方が圧倒的に多かった。



 紅茶そのものの話をしよう。現在、紅茶の種類はかなり豊富にある。紅茶専門店のルピシアに行くと、数えきれないほどの種類の紅茶がある。特にフレーバーティーの種類が多い。乾燥した果物を混ぜたものが多い。フレーバーティーは、夏、冷やした後にガムシロップを入れて飲むと特に美味しい。ダージリンは、やはりストレートが美味い。だが、紅茶で有名な日東紅茶より、高価だが専門店で買った紅茶の方が断然美味い。間違いなく味が違う。その味を知ってしまうと、ティーパックには戻れなくなる。ところで、ミルクティーのイメージってどんなですか?女性だけが好んで飲んでいると思っている人が多いのではなかろうか。実際、コンビニなどでミルクティーを買う男はほとんどいない気がする。実際、ミルクティーを買ったとき、女みたいと言われた。それは間違っている。イギリスの王室にはロイヤル・ミルクティーというものが存在する。間違いなく、日本人のほとんどが、美味しいミルクティーを飲んだことがない。女性も含めて。



   美味しいミルクティーとは一体?実は私も数年前まで知らなかった。ミルクティーも茶葉によって随分味が違ってくる。ミルクティーに合う茶葉は「アッサム」である。逆にアッサムはストレートティーには向かない。味が強すぎるのだ。しかし、ミルクを入れることによってガラッと味が変わり、凄くマイルドになる。これを飲んだら、ミルクティーの虜になるであろう。実際、私は、これを知ったとき、ミルクティーばかり飲んでいた。ホントに凄く美味い。香りもいいが、味がなんとも大人な味がする。お試しあれ。ただ、アッサムの茶葉も紅茶専門店で購入することを強くお薦めする。フレーバーティーの茶葉の価格は高めだが、普通のダージリンやアッサムは専門店でもお安く買える。コーヒーは豆によって味が大きく変わるし、製法や保存状態によっても大きく変わる。紅茶やお茶も同じで、随分と味が違ってくる。ところが、コーヒーの専門店はそこら中にあるが、紅茶の専門店は少ない。しかし、確実に存在する。ネットでも注文できる。だから、コーヒーに限らず、紅茶も専門店で買ったほうがいい。今回も長いエッセイになってしまった。このように長い文章を書くと、皆嫌がるが書いてしまう。はは。

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April/8/2021

コーヒーとそれにまつわる話

 コーヒーという飲み物を語りだすと、好きな人はずっと話すことができるのではないかという程に大好きな人がいる。コーヒーが趣味になっている人もいらっしゃるだろう。実際、私の父もそうである。私が子供のときから、そりゃもう凝りに凝っていた。豆の種類も通常の人で知っている美味しい豆の名前と言えば、「ブルーマウンテン」であろう。現在、ブルーマウンテンを知らない人はいないかもしれないが、私の子供のときは、ブルーマウンテンを知っている人は通に近い人であった。しかし、私の父は、ブルーマウンテンを飲むことはまずなかった。というか、父がブルーマウンテンを飲んでいるのを見た記憶がない。あれほどコーヒーが好きな人なのに。昔、何故ブルーマウンテンを飲まないのか質問したことがある。答えは曖昧であったが、結局はそれほど好きではないのであろうし、何より自分でブレンドして美味しく淹れることが楽しいのであろう。



 私はというと、父の影響もあり、子供のときからコーヒーを飲んでいた。小学生の頃、同級生でコーヒーを飲んでいたヤツは記憶にない。大抵のヤツはコーヒーは苦いくて好きではないと言っていた。だが、私は、父が丹念に淹れた美味しいコーヒーを飲んでいたので、「コーヒー=苦い」という感覚はなかった。同級生に言われてみて確かに苦味があると認識したほどである。初めて飲んだとき、苦いという感覚よりまろやかで飲みやすく美味しい飲み物という感覚であった。



 親父の淹れるコーヒーは本当に美味くて、昔一度しか飲んだことのない母の知り合いは、今でも父の淹れたコーヒーより美味しいコーヒーは飲んだことがないと言う。親父の弟は、かつて、遠く離れた土地に住んでいたのだが、帰省する度に親父のコーヒーを飲んで、感服していた。帰省すると必ず親父にコーヒーを淹れて欲しいと懇願していた。ブレンドする豆は、色々変わっていたようだが、名前を聞いて私が知っていたのは、モカとブラジルぐらいであった。



 とここで、かつて大学卒業を控え就職活動をしていたときの話をさせていただこう。後で知ったのだが、就職活動のバイブルと言われていた「面接の達人」という本がある。この本の巻末には、自己分析をするためのメソッドが掲載されていて、この本を読んだ学生は皆それをやったのであろう。だが、私は、この本は一切読まなかった。この本に掲載されている自己分析の手法の一つに「あなたはコーヒーが好きですか?」という質問に答えるというものがあった。その本ではコーヒーというのは、仕事に該当するものなのだそうだ。苦いのだが、上手く淹れると美味しい飲み物になり、よく研究しないと美味しいコーヒーが飲めない。仕事も同じということらしい。よく調べたりこだわりを持ってじっくり楽しんで取り組むことができるかどうかをコーヒーを通して判断する質問ということなのだ。だから、面接官も学生に「あなたはコーヒーは好きですか?」と実際質問してきた。5、6人一緒に受ける形態の面接だった。私以外の学生は大体同じような受け応えをしていた。コーヒーを飲むときは、豆に拘り丹念に淹れるといった感じ。「量はどれぐらい飲みますか?」と質問されると、少しをじっくり味わいながら飲むといった感じ。


 私はというと、高校生のとき、親父が淹れてくれるコーヒー以外は、インスタントコーヒーを毎日2、3杯飲んでいたのだが、元々腸が弱く下痢が続いたとき、医者に診てもらった。すると、医者がコーヒーは刺激物なので腸に良くないと言った。それ以来、それを信じて、コーヒーを飲むのを止め、紅茶を飲むようになった。飲む量はコーヒーのときと同じである。そして、面接のとき、質問を受けるトップバッターは私で、「あなたはコーヒーは好きですか?」と質問されて、私は「好きなのですが、医者に飲まないように言われてから紅茶ばかり飲んでます」と答えた。すると、面接官は、少し困った顔をして「では、紅茶はどのように飲みますか?」と聞いてきた。その瞬間、私はその質問の意図を全く理解できなかった。紅茶と仕事に一体何の関係があるのか?一体面接官は私の何が知りたいのか?で、私が答えに窮していると、面接官が「では、量はどれぐらい飲みますか?」と聞いてきた。で、私は一言。「がぶ飲みです」と答えた。面接官は複数人いたのだが、皆ビックリしていたし、学生たちは私にビビっていた。「面接の達人」の内容に従って考えれば、私は仕事は選ばず手あたり次第やりまくるということになる。私の後に続いた学生達は、前述のように答えていて、私はなんだそんなことを言えばよかったのかと半分理解した。転職活動をするときに「面接の達人」を読むことになり、そのとき何を面接官が質問していたのか理解した。



 そのとき、面接官は最後の質問の後、私に「面接の達人」を読んだ方がいいよと言っていた。転職活動のとき初めてどういうことか知ったのだが、今となってはバカバカしく思える。人の思考や行動パターンや傾向などを知りたいのなら、いくらでも質問の仕方がある。そのときその会社からは不採用の通知をもらった。たぶん、就職活動への勉強不足ということなのだろう。不真面目なヤツで就職した後、仕事はサボるタイプだと判断したのであろう。だが、私は、就職してからサボったことはほとんどない。休日も早く力を付けたいがために専門書を買いあさり、読みまくった。今まで色々な設計をやったが、自分より頑張っていたヤツを見かけたことはない。他人の目から見れば少しはいたかもしれない。しかし、私は上司にもっとサボってもよいと何度も言われたほどにいつも懸命に仕事をやってきたし、仕事の面白さも理解できるようになった。今の私から言わせれば、その面接官達こそ、勉強不足である。まるでダメだ。そんな質問では、人の本質は分からないし、どんな職種が向いているかも分かるまい。



 とある本の心理学的内容を学生も面接官も皆信じて、そのとおりの質問と受け応えをやっている。たぶん、現在でも同じであろう。何も知らない人に上手く誘導してそういった質問をして内面を探るというのは、理解できる。でも、学生のほとんどが知っているのだ。面接官も知っていることを前提に質問している。異常である。お前たちはバカなのか?と言いたくなる。それよりもっと聞かなくてはならないことがもっとあるはずだ。面接に来た学生が何をやりたがっていて、どんな希望を胸に抱いているのか。その学生の性格。そして、やることを最後までやり遂げるだけの根性がどこまであるか。根性が一番重要かもしれない。完璧な学生はいない。だから、どこかで折り合いを付けて、後は入社してから育てるのだ。人は成長する。などと書くと昔は会社が社員を育てていたが、現在は、社員が自分で成長する時代だと言う人事の関係者がほとんどであろう。そう言う者も分かっていないと言える。手取り足取り教えて育てるのではない。色々な経験を積ませて成長を促し、どんなことが出来て、どんな思考になってきたのかを人事は把握しなければならない。と書くと、何千何万もいる社員全員の内面をどうやって把握するのか?と言う人もいるだろう。ま、そう思うのなら、できないということであろう。無能と言わざるを得ない。



 コーヒーそのものの話に戻そう。私もブルーマウンテンを飲んだことはあるのだが、それほど美味しいと思ったことはない。それよりモカの方が好きである。それは人それぞれではあるが。あるときお歳暮でキーコーヒーのギフトが贈られてきた。ドリップして淹れるタイプのコーヒーである。その時まで私はキーコーヒーを舐めていた。トアルコ・トラジャという豆がそのお歳暮に入っていた。私は、トアルコ・トラジャという名前すら知らなかったので、何の期待もせず、軽い気持ちで、親父のコーヒーには遠く及ばないであろうと思いながら、ドリップして淹れた。そして、一口飲んでビックリした。なんだこれは!と。コーヒーを飲んでここまで衝撃を受けたことはないかもしれない。親父のコーヒーは物心ついたときから飲んできたので、衝撃を受けたわけではなかった。



 だが、トアルコ・トラジャからは衝撃を受けた。初めて聞く名前だったので、親父にトアルコ・トラジャを知っているか聞いたら、やはり知っていた。それは、キーコーヒーが独占販売している豆で、さらに高価な豆ということも教えてもらった。親父はコーヒー豆を買ってくると、密閉できる容器に移し替え名前をシールに書き貼り付けている。で、親父のコーヒー豆の棚を見てみると、なんと!トアルコ・トラジャとシールに書かれている容器が見つかった。中身は空だったが、親父もトアルコ・トラジャを飲んでいたことが分かった。やはり、コーヒーについては親父に聞けば大抵のことは分かる。それとき、私はトアルコ・トラジャにハマり、スーパーでもコーヒーショップでも棚を見るときはトアルコ・トラジャを探す。トアルコ・トラジャがスーパーに並んでいることがあるのだが、実は、それはトラジャブレンドで、100%トアルコ・トラジャではない。少しばかりトアルコ・トラジャがブレンドされているにすぎない。少し通ぶってみたが、実はトアルコ・トラジャそのものを買ったことはない。トラジャブレンドの豆は買ってみて飲んだのだが、やはりお歳暮で飲んだトアルコ・トラジャとは違った。トアルコ・トラジャを飲んだことのない人がいたら、一度飲んでみて欲しい。きっと感銘を受けるはず。

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April/3/2021

薄紅に葉はいち早く...

 花見(桜鑑賞)が趣味になって久しい。以前は、花見には全く興味がなかった。満開の桜は確かに気持ちを明るくしてくれますが、毎年楽しみにしているということはなかった。今から、10年ほど前でしょうか、色々人生や家族や仕事や様々なことをじっくり考える機会が巡ってきて、精神的にもきつかった。しかも、それは冬だった。そこへ、春の訪れと共に桜が咲き始め、やがて満開になる。そして、その満開の桜と同時に温暖な季節に移行する。そして、桜が散り始め、桜吹雪になっていく。その様を近くの桜がたくさん植えられている大きな公園で目の当たりして、大きく心を動かされた。しかも、そのとき、音楽を聴きながら桜を見に行った。聴いた音楽は、リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲。満開の桜と実に見事に融合して、感動がさらに大きくなった。それ以来、毎年桜の花の蕾が気になり、開花の時期が気になり、開花すると、気分が高揚するようになった。これは、桜の花見を伝統にする日本人の特質かもしれない。もちろん、世界中、春の訪れで気分が明るくなる人は大勢いるだろうし、それぞれの国でその気分の楽しみ方も違うだろう。日本は桜ということ。



 桜にハマり始めた頃は、近隣の県の有名な桜を見に行ったりした。岐阜県では、有名な根尾の薄墨桜と高山の臥竜桜。どちらも素晴らしかった。臥竜桜は、直ぐ傍を走る名古屋と富山を結ぶ高山線の駅があり、なかなかの景観を持っていた。桜そのものも見事だった。豪壮な感があり、そういった点では、薄墨桜より上手の感がある。長野県には、高遠城の桜も鑑賞に行った。地元愛知県では、五条川の桜も有名で、川の両岸にびっしりと植わった桜が延々と続いている。桜の季節になると、その両岸に出店も所狭しと延々と並んでいる。川には、錦鯉が放流されていて、これまた雰囲気を盛り上げている。だが、何と言っても名古屋城の桜には、勝てないであろう。あそこのお濠に植わっている桜は大きく、実に見事で優雅である。桜好きで全国を回って写真を撮りまくっているブロガーさんが以前いたのだが、その人も私が撮った名古屋城のお濠の桜を見て感動していた。



 この一連の写真は、近くの大きな公園なのですが、川べりにもっとたくさん植わっていて、最初に気付いたときは、見事な景観だった。だが、枯れたりして、本数が減少してしまった。酷いのは、枯れてしまった桜を伐採するのはいいのだが、その跡をコンクリートで固めたり、伐採してそのままになっていたりする。何故新たに植えないのか?と甚だ疑問である。とは言え、この公園だけではなく、この川沿いには、他にも近くに幾つも公園があり、それぞれの公園に桜が植わっている。だから、この川沿いは、桜の季節は、見応え十分な景観となる。桜の種類もソメイヨシノ、大島桜、山桜、枝垂桜、八重桜、冬桜と豊富である。冬桜だけは、開花が2月と早い。



 今日もこの桜並木を見ながら公園を散策してきた。既に4割ほど散ってしまっている木が半分ほど。それでも、まだまだ満開の桜もあった。黄砂が飛来する前日に見に行ったときは、満開の桜はまだ2割か3割程度だったが、見事に咲き誇っていて、正に春を実感できる瞬間だった。そのときもアルプス交響曲を聴いた。話が逸れるが、リヒャルト・シュトラウスは、当時、マーラーのライバルであった。両者の音楽は、雄大且つ豪壮な曲が多く、そして、難解である。マーラーの曲は、交響曲第1番、2番は比較的分かり易いが、3番以降になると、難しさが急激にUPする。R・シュトラウスの曲は、若かりし頃の曲でも難しい曲が多い。曲中非常に分かり易い箇所もあったりするが、曲全体で考えると難解である。クラシック初心者向きではない。R・シュトラウスの曲の楽想はどこか冷たさを感じさせる。マーラーの曲の楽想は全ての曲ではないが傾向として温もりを感じさせる。これは、私の所見だが、シュトラウスは、客観的な音楽で、マーラーの場合は、主観的な音楽と言える。R・シュトラウスは、曲に自己の感情ではなく、客観視した思いを込め、マーラーは己の感情をストレートに曲にぶつけている。だから、マーラーの曲は、人の様々な感情で溢れかえっている。リスナーは感情移入しやすい。一方、R・シュトラウスの曲は、もちろん人の感情が入っているのだが、どこか距離を取って見ている感があり、なかなか感情移入しにくい。もちろん、どっぷり感情移入してしまう曲もある。傾向の話。


 話が逸れたついでに、もう少し逸れる。今度は、ロックの話。ロックを聴いている人は、クラシックは昔の音楽で終わった音楽と考えている人が多い気がする。一方、クラシックを聴いている人は、クラシックこそが、全ての音楽の源で最先端でもあると思っている人が多い気がする。最先端というのは、いわゆるクラシックの現代音楽という括りには、非常に難解な曲が多く、音楽の理解度が相当高くないと理解できない曲がほとんどだから。要は、さらに進歩した音楽と捉え、未来の人が理解できるであろう音楽という位置付けだから。もちろん、現代に理解している人もいる。両者の意見は、半分当たってはいるが、半分間違っている。クラシックの歴史は当然古く、源で最先端でもある。一方、昔の音楽でもあるが、現代の音楽でもある。ロックはと言うと、クラシックの作曲家が全く思い付かなかった楽想の曲を連発しているバンドが多く、ロックこそ最先端と考えるのも分かる。だが、実は両者共に最先端をひた走っている。向かう方向が違っているだけなのだ。並行して進行している。交わる部分もあるが、大きなうねりは、完全に両者共に独立している。



 そして、興味深いのは、ロックスター達もクラシックの作曲家同様の作曲家であるということ。パクってばかりいるバンドは違う。同じなのだ。などと書くと、ロックのファンには、「はぁ?」と理解できない人もいるであろう。何が同じかと言うと、クラシックの作曲家は若い頃から、音楽の勉強を始め、色々な音楽理論や作曲手法を習得し、さらには自己の作曲手法を確立したりする。凄い人達なのである。だから、現代に名が残っている作曲家の数は、クラシックの何百年という歴史の長さと比べると、非常に少ない。特に有名な作曲家となると、数十人であろう。そう、滅多に生まれてこない逸材ばかり。そして、彼らは、自己研鑽を怠らなかった。だから、彼らの人生の後半になる程に難解だが、深く内容の濃い名曲を残している。もちろん、若いときも名曲をたくさん作曲しているが、後半生に作曲した曲とは深みが随分違ったりする。



 ロックスター達も同じである。彼らの曲もデビュー時の曲から年月と共にどんどん進化を重ねていく。そして、あっという間に高みに到達する。バンドによっては、1枚目から凄い曲をリリースしていたりする。高みに到達した後、紆余曲折を重ね、更なる高みに昇っていく。聴いてる者はもうこれ以上の曲は作れないだろうと思っても、次にリリースする曲を聴くと、更に凄い曲が収録されていたりする。そして、それを越えると、難解な曲をリリースし始める。彼らは、「自分のやりたい曲」と「ファンが望む曲」という風に語ったりする。要するにファンが付いていけないほどに難しい曲を作れる高みに到達しているのである。クラシックの作曲家も同様で、後期の曲になる程に難しい曲ばかりになる。ロックスターがクラシックの作曲家達と決定的に違うのは、ファンが求める曲も必ず作曲するということ。クラシックの作曲家達は、自分の作曲したい曲しか作らない。だから、ロックのアルバムは、二つの面から楽しめる。最先端の曲とファンの望む元来の曲と。



 話を桜に戻す。最近、「GreenSnap」というアプリをスマホに入れた。このアプリ、名前の分からない花や植物を写真に撮り、それをアップロードすると、AIがその名前を教えてくれる。しかも、どうもその名前が違っているときは、「これだ」というボタンを押さなければ、そのアプリのユーザーが名前を教えてくれる。非常に便利。教えてくれる人には感謝である。因みに、上の写真の桜の名前は、「山桜」。山桜という名前は知ってはいたが、実際にどういう桜かは知らなかった。だが、いつも見ていた桜の中に数本植わっていたことが、このアプリで分かった。分かったとき、何とも言えず嬉しくなった。因みにこの公園の近くには私が通った中学校があり、その学校には、若山牧水の碑があり、そこで歌われた短歌「山桜の歌」が刻まれている。校歌にもその短歌がそのまま歌詞として使用されている。実は、若山牧水は、その中学校に滞在したわけではなく、その中学校の校舎は元々隣りにある白鳥山法持寺の敷地だった。戦後に中学校を新規に開校するにあたり、法持寺から土地を譲り受けたのだ。なので、若山牧水が滞在したのは、法持寺なのである。その歌を紹介しておこう。「薄紅に 葉はいち早く 萌出て 咲かんとすなり 山桜花」。

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