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瑞相記(エッセイ)

進化する将棋

徳川家康は強かったのか?


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May/7/2021

進化する将棋

 今回は将棋について。将棋の歴史は古い。古代インドのボードゲーム、チャトランガというものが起源であると将棋連盟は言っている。ただ、将棋はチェスにも酷似している。チャトランガよりもチェスの方が近い。そして、インドから日本へ伝播するには中国を経由する必要がある。だが、中国の将棋と日本の将棋は違う。また、確実に中国から伝播したボードゲームに囲碁がある。これは、99%ルールが同じ。でも、なぜか将棋は中国のものと日本のものでは違う。チェスに近いと書いたが、それぞれの駒の動きは確かに酷似している。しかし、攻略方法がチェスと将棋は結構違う。ひょっとすると、日本の将棋は中国の将棋と西洋のチェスの両方に起源を持っているのではなかろうか?などと書くと、そんな大昔にチェスがどうやって日本に伝播したのか?という人もいらっしゃるだろう。実は伝播できる状況にあった。詳しくは書かないが。だから、チェスと中国将棋に加えて日本で独自の進化を遂げた可能性は極めて高い。

将棋

 もう一つ進化の話。将棋の戦法である。私は子供の頃、将棋が大好きだった。近所の年上の人ともやっていた。やり始めた頃は、やっぱり連戦連敗。戦法らしきものも教えてはくれない。そんな頃、小学2年生の夏休みに入院することになった。医者は3日で退院できると言っていたが、まんまと騙されて一か月入院した。そのとき、入院中に突然、知らないおじさんが私の病室(大部屋)に現れて、「将棋が好きだと聞いたけど、戦法は知ってるか?」と訪ねてきた。知らないと言うと、毎日将棋の戦法を教えにきてくれた。そのとき、かなり衝撃を受けた。「矢倉囲い」だとか「棒銀戦法」とか教わった。自分でも分かるほど上達した。退院してから、近所の年上の人と勝負したら勝ってしまった。全て小学生だが、4つ年上だったりした。それで、その友人の祖父とも勝負した。すると、また勝った。その後、5年生になり将棋クラブに入った。すると、同級生に1人か2人なかなか手ごわい相手がいた。将棋熱はそこで一旦止まった。

小学校

 今度は中学2年のときクラスで将棋が流行り始めた。で、勝負すると、かなり手ごわいヤツが一人いた。悔しくて、小学生のとき勝った将棋の本を最後まで読み切った。すると、最後の最後に強烈な戦法が紹介してあった。「石田流」という戦法である。聞いたこともテレビでプロの棋士が使っているのも見たことがない。しかし、読んでいて、"これだ!"と思い、何度も読み返し習得した。それで、その強い同級生と勝負をしたら、あっさり勝ってしまった。他の戦法も勉強して、ソイツと勝負してもなかなか勝てない。しかし、「石田流」で戦うと必ず勝てる。ソイツも何度も私に挑戦してくるが、結局はいつも私に返り討ちにあう。そのとき、私は学年で最強になった。それ以降も「石田流」を使ったとき、負けたことはなかった。

石田流

 時は流れて、現在2021年。スマホやPCのアプリで「将棋ウォーズ」というものがあり、見知らぬ人と対戦できる。短時間で指さなくてはならないが、全国の腕に憶えのある者が参戦している。そして、そのアプリでの戦いを録画してYouTubeにUPしている人が結構いる。実はプロ棋士もやっている。プロ棋士と対戦もできる。で、YouTubeでその人達の戦い方を見ていると、私が子供の頃指していた戦い方とは随分違う。特に感じたのは「叩きの歩」という指し方。似たような指し方はあったが、これほど多用はしなかったし、使い方が違う。そして、私もうる覚えになってしまったが、得意戦法の「石田流」で参戦してみた。すると、連勝していくのだが、手ごわい相手は、なんと「石田流」対策を知っている。使っている私も知らなかったのに。普通に知られているようだ。しかも、指し方自体が違ってきているので、私の戦い方では現在将棋を勉強している者には勝てないようだ。将棋の戦い方がこれほど進化するとは思いもよらなかった。その理由として、コンピューターの登場があるようだ。プロでさえコンピューターを使って色々勉強している。戦法もコンピューターが考えた戦法がある。何と言うか、コンピューターを使うのはいいのだが、戦法はやはり人が考えるべきである。このことを知ったとき、何やら悲しくなった。現在の将棋の進化はコンピューターがもたらしたものと言えるかもしれない。少し面白みに欠ける。コンピューターに教えてもらうなんて...悲しすぎる。

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May/1/2021

徳川家康は強かったのか?

 戦国武将シリーズを始めて今回で4回目になります。第1回は武田信玄、第2回は上杉謙信、第3回は竹中半兵衛について書きました。今回は徳川家康についてです。昨今、徳川家康に対する評価が低くなってきました。戦国時代、一番強かったのは上杉謙信だとか言われたりします。また、無敗の将とも言われます。それは、真っ赤な嘘。上杉謙信は、確かに生涯の前半は負け知らずで関東や北信濃で暴れまわりました。しかし、後半は織田軍の柴田勝家に能登・越中の城を落とされまくっている。要は柴田勝家の方がずっと強かったということ。では、なぜ前半は無敗だったのか?それは、相手がそれほどでもなかったから。その辺のことを少し書いてから徳川家康について書いていく。

徳川家康

 関東地方は、元々人口も少なく湿地帯が多かった。それで、湿地帯の多い南関東ではなく北関東が中心地であった。北条家は関東でもその南関東をどんどん制圧していった。その結果北関東と隣接することになり、さらに北関東へ侵攻する。そこへ、北関東と一応隣接している越後の長尾景虎が、救援に向かい北条軍を小田原まで押し戻した。まず、北条軍自体、それほどの戦力を持っていない。それは、北条家が領有していた地域は伊豆と小田原。人口も決して多いとは言えない。武田家もそう。領有していたのは甲斐のみ。だから、今川、北条、武田の三つ巴のとき、一番強かったのが今川家。今川家は駿河を領有していたが、西へ進軍し遠江、三河を手に入れた。遠江、三河は人口も多く、大地も肥沃で海産物も豊富。だから、この3大名が3国同盟を結んだときも今川家が主導した。北条家の北条綱成も実は今川家の重臣の息子。

伊豆半島

 また、北条家の家臣団は北条一族ばかり。人手不足な証拠。徳川家の場合、大方の家臣が一門武将ではない。家臣の層が分厚い証拠である。だが、北条家は今川家と渡り合うほどの強さであったから、もちろん、弱小ではない。ではないが、全国の大名と比較すると、ランクが少し落ちる。九州の大友、島津、中国地方の大内、後の毛利、宇喜多、尼子、四国の三好、北陸の朝倉、長尾、そして、前述の今川。他にも大名ではないが、大名のような行動を取っていたのが本願寺。本願寺は、北陸の加賀を本拠とし強力な経済基盤を持っていた。東北は豪雪地帯でもって人口が少なすぎるため、全国規模と言える強力な大名家はない。これらの大名より北条家の戦力は劣る。とは言え、それらの大名とそこそこ戦える戦力は持っていた。結局、越後の長尾景虎が北条家を押し戻すことができたのも戦力差があったればこそ。甲陽軍鑑も武田家の家臣が書いたものだけに、主観が武田となっている。だから、常に武田家は強かったという印象を読む者に与える。武田信玄が長尾景虎と互角に渡り合えたのは、信濃と上野の中心地(箕輪城)を領有できたため。甲斐、信濃、箕輪を領有して初めて越後と戦えたのである。北条はスカスカの南関東を手に入れただけだったから長尾景虎には太刀打ちできなかったということ。景虎が前半、無敗だったのは、相手がそれほど強い相手ではなかったからということ。唯一、互角の戦力と戦ったのは、武田信玄だけ。他は全て格下相手。戦上手だったとは思うが、戦国最強は言い過ぎ。

北条氏康

 徳川家康に戻ろう。まず、徳川家の由来から。例によって御用聞き作家・司馬遼太郎先生の捏造によって松平家(徳川家)の先祖は、流れ者の坊さんということにされてしまった。司馬大先生が言うには、その坊さんは、口が上手く、三河のどこかのお寺の住職の座を乗っ取り、さらには、三河一国の国主の地位も乗っ取ったということらしい。皆さん、冷静になって考えてください。こんなことできると思いますか?三河という国は古来より決して田舎ではありません。古代において、既に尾張を中心とした、人口が一番多い地域でした。関西の人口もそれほど多くはなく、京都は今から1200年ほど前に何もないところに建設した都市であり、尾張、岡山、北部九州、島根の方が古い。だから、京都に古墳はない。さらには天智天皇は京都よりもっと古い時代に奈良から大津(滋賀県)に移転したこともある。また、古代より、三河国・美濃国の人は尾張国の人と繋がりを持っていたので、纏向遺跡(奈良にある最古の都市遺跡)を尾張の人が建設する際、一緒に行動していた。また、時代を進めると、天智天皇崩御の後、壬申の乱が勃発する。その時、危険を察知した大海人皇子(天武天皇)は自分が養育された尾張・熱田の宮(熱田神宮)へ逃げた。そして、救援軍を要請する。それに尾張国は応え、尾張国に加え三河国と美濃国の軍も大海人皇子に授ける。大海人皇子は、その軍隊を従えて大津に進軍。あっという間に敵を一掃し即位した。という具合に三河国も日本の歴史に古くから関わっている。そのような地域の国主の地位を流れ者の坊さんが口八丁手八丁で手に入れることなど不可能である。司馬大先生は他にも色々堂々と捏造をやっている。あの人は自分に墓は必要ないと言って、死後は灰を海に捨ててくれと妻に言い残して死んだ。そして、その奥さんは、言った通り実行した。灰を海に捨てるところをテレビのニュースでも放送された。ひょっとすると、罪の意識があってのことかもしれない。分からないが...。松平家(徳川家)は、最初から歴とした武士の家系であり、古くは尾張の織田家を支えていた。
司馬遼太郎

 次は、徳川領について。当初、徳川家は三河国だけを領有していた。後に徳川領となる遠江(浜松)は元々は織田家が領有していた土地である。ということもあり、遠江の戦国大名はいない。そして、今川家が遠江を戦国期の早い段階で攻め取った。前述のとおり、遠江も肥沃な土地で、今川家の国力は倍増したと言っていい。今川家は、さらに西の三河国に狙いを定める。しかし、そのときの三河の大名は松平清康で屈強な大名であった。松平清康は、織田信秀が美濃の斎藤家と戦っている隙を突いて主筋の尾張・織田家に侵攻する。その尾張・守山城攻略中に織田家に通じていた清康の部下に殺害される。24歳であったらしい。嫡男・広忠は10歳であったため、家督をすんなり相続できなかった。それが元で、三河国は弱体化。清康が尾張に侵攻したのが原因だとは思うが、三河国は織田信秀に逆に侵攻されることになる。そのとき、弘忠の嫡男・家康は織田家の人質となる。まず、家康は尾張で幼少期を過ごす。そのとき、織田信長と竹馬の友となった。しかし、弱体化した三河国は尾張への備えとして今川家を頼むようになる。そこで、今川義元は三河に加勢すると同時に三河国を掌握していく。さらには、松平家は今川家に援軍を頼み連合軍は織田軍との戦いに勝利。西三河を徐々に取り戻していく。次に信秀が急逝する。その後、義元は尾張へ本格的な侵攻を決断。とっくに元服した家康も義元の部下として、三河衆を引き連れ従軍。今川・松平連合軍が尾張の鳴海城と沓掛城に猛攻を仕掛ける。有名な桶狭間の戦いとなる。結果、義元は打ち取られ、それを機に家康は従属していた今川家から独立を宣言する。さらに単身清州へ赴き、信長と直談判し同盟を結ぶことに成功する。この同盟関係は生涯続く。これにより、三河国にとって西側からの脅威が消滅した。

岡崎城

 この後、家臣の本多正信が謀反を起こすなどしたが、基本的に家臣団は団結し東の今川家に備えるようになる。弱体化した三河を立て直し、再び力を付けた松平家は、たびたび織田家に援軍を送るほどになった。信長公が関西を掌握していた三好家を駆逐したあたり、武田信玄は今川家の攻略を開始する。しかし、北条家が今川家に味方したこともあり攻略に失敗。そこで、今川を武田と徳川で挟撃する案を家康に打診し承諾を得る。その結果、武田は駿河を領有し、徳川は遠江を領有した。その後、武田は遠江へ侵攻。信玄とはこういうヤツである。武田は北の越後の備えとして高坂昌信を北信濃に配置した。元々信濃には真田もおり、越後の備えとしてある程度持ちこたえられるだろうと考えたのだろう。越後の謙信は動かなかった。北関東の箕輪も特別強力な相手と敵対していたわけではない。信玄は万全を期して徳川家への攻略を開始したのである。武田軍の主力となったのは、武田軍随一の猛将・山県昌景。他にも馬場信房、秋山信友ら重臣も侵攻する。徳川家は遠江を領有したとは言え、さすがに甲斐、信濃、箕輪、駿河を領有している信玄とは戦力差が大きい。しかし、徳川家康筆頭に家臣も有能な武将が揃っており、武田軍の猛攻を凌ぎきる。すると、とうとう大将の信玄自ら侵攻を開始。そのとき、織田・徳川両家に調略など戦以外の方法でも攻撃を仕掛ける。が、結局、それを逆利用され、三河国内まで誘いこまれ信玄や重臣たちは討ち死に。

山県昌景

 その後、武田の家督を相続した勝頼も、遠江・三河へ侵攻する。このときも結局、長篠まで誘いこまれ、織田・徳川連合軍に完膚なきまでに叩きのめされる。織田軍もそうなのだが、徳川軍も戦で家臣をあまり戦死させたりしない。部下を大切にしていた証拠である。結局、武将たちは、討ち死にしないから、どんどん場数を踏んでいく。それにより、どんどん成長し強くなっていく。長篠の戦いの後、織田・徳川両軍は武田領に侵攻する。徳川軍は駿河へ侵攻し甲斐を目指し、織田軍は、信濃・高遠へ侵攻し諏訪、甲斐へと進んだ。徳川軍は駿河をあっさり落とし甲斐へ進む。織田軍も高遠城に籠る仁科盛信を難なく撃破し甲斐へ進む。あっという間に甲斐も落ちた。織田・徳川連合軍に攻め込まれたらひとたまりもない。北信濃の武田の部下たちもあっさり織田信長に恭順を示す。これにより、徳川家康は駿河も領有することになる。三河・遠江・駿河の3国を合わせた国力は相当なもので、中国地方の毛利家を凌ぐ。もちろん、北条・上杉よりもずっと上。徳川軍は、有能な武将も揃っており、織田家を覗けば全国一と言ってもいいほどに強力になった。

駿河

 この後、本能寺の変が起こる。そのとき、家康は本能寺で開催予定の茶会に招かれていた。だから、家康は浜松ではなく、堺にいた。そこで、本能寺の変の報を受け取り、家康も身の危険を察知し急遽三河へ移動する。無事帰国した後、関東管領職を任されていた箕輪城の滝川一益は、織田家の本拠へ一旦退却を開始する。だが、退却の前に関東諸将に本能寺の変のことを話す。それにより北条が突然裏切り、箕輪城へ侵攻。そのとき、滝川軍は北条軍に敗北したことになっているが、実はそれは嘘。一益の策略は裏切るヤツをあぶり出すこと。まんまと引っ掛かった北条家は、箕輪城へ侵攻し、実は返り討ちに遭っている。しかし、一益は関東を重要地域とは考えてはおらず、迎撃後退却した。それにより、清州到着が一番遅くなった。その後、清州で秀吉が一益に対して「遅参したのだから、発言権はない」などと言ったり、他の家臣も丸め込んで自分の思い通りに話を進めるという清須会議の話もデタラメ。一益の発言権がなくなるわけがないし、そんな簡単に丸め込まれるような家臣はいない。皆、実力者揃い。彼らの考えは、最初から後継は三法師であった。問題はまだ赤ちゃんであったということ。だから、必ず、本能寺の変に関わった者に付け狙われると考え、誰がどのように守り養育していくのかということを話合っていた。それが、本当の清州会議。このとき、家康は三河にいた。

北条氏政

 このようなとき、安定していた関東は北条家たちによって再び戦乱の世に戻される。家康も駿河が伊豆や甲斐と隣接しており、北条の動きに注目している。結局、徳川・北条両軍は全面対決をしなかった。捏造の話は北条軍が北信濃の越後国境の川中島まで進軍し上杉軍と対峙したとなっているが、あり得ない。いくら何でも、北条軍にそこまでの力はない。一益のいなくなった箕輪城を奪うことができたとしても、そんな一朝一夕に大軍を養うことなどできない。そもそも、北条家の戦略としては、関東をわが物にするのが狙いなのだから、わざわざ広大な信濃を経由して越後まで攻め込むなんてない。それより徳川軍が領有している駿河が欲しいはずである。そこで、徳川軍と北条軍は織田軍が撤退した後空白となった甲斐でにらみ合いをし、一触即発の状態になった。しかし、さすがに戦力を考えたら徳川軍と戦うのは無謀である。今川・北条・武田の中で一番狡猾で知恵の回ったのは、北条家だったと思う。その後、北条家は徳川家と姻戚関係を結んだ。賢い。これで北条家は西からの脅威がなくなり、当初の目的、関東攻略に全力で取り組めるようになった。

酒井忠次

 史上最強の徳川軍が出来上がったのは、この頃であろう。武将たちもさらに強力になっていた。事実、徳川軍の負け戦の話を聴いたことがない。信濃の真田と争って負けたという話があるが、どこまで本当か分からないし、真田軍と戦ったのは鳥居元忠らという。主力ではない。一部隊。家康が本気で攻めたら、ひとたまりもない。徳川家康は、自ら戦を仕掛けることをあまりやらなかった人である。婚姻関係を結んだりして、平和的な解決を好んだ人ではなかったか。織田家同様に内政にも力を入れた人物。だが、戦は滅法強かった。実は三法師の後見もやっている。現在、日本全国に主要都市がいくつもあるが、かなりの数がその時代の織田家や徳川家の家臣によって育てられた。因みに武田信玄らが育てた都市は一つもない。そりゃ大きな戦力差が生まれるはずである。

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