彼女は、多くの宝を持っとる。ピアノの才能と言っても、超絶技巧と言うだけではない。彼女が演奏する曲の解釈は、真新しく、誰も考えもつかなかったものばかりである。言わずもがなだが、彼女の美貌についても誰も異論を挟まないであろう。性格も非常に強い意思と共に屈することのない精神力をも兼ね備えとる。いわゆる、智勇兼備の女性である。彼女の演奏を聴いとると、決して妥協することなく、一音一音を噛み締めて弾いとるように聴こえる。解釈に統一性があり、曲全体の構造を読み取り、細部においても作曲家の表現したかったことを更なる高みに押し上げ表現する。彼女のデビューアルバムは、シューマンの「クライスレリアーナ」とブラームスのピアノ・ソナタ第2番である。10代半ばでのレコーディングである。私はこの事実を知ったとき、驚愕以外の感情は湧てこなかった。10代の女の子がシューマンの曲を演奏するなんて可能なのだろうか?と。シューマンの曲は、ほとんどが難しい曲である。ピアノ曲はシューマンの得意分野だけに難解なものが多い。というのもシューマンは、ショパンと同世代であるが、その時代かなり前衛的な曲を作曲しとる。現代の視点から見てもドビュッシーに近い部分があるのだ。演奏も難しいと思うが、曲の構造を理解するのは、10代のピアニストには困難なのでは?と思う。だが、彼女の「クライスレリアーナ」を聴くと、理解と共に自分の解釈をも持っとるのだ。この1曲を以てしても驚異的な能力の持ち主と言える。もちろん、努力家でなければ不可能。
また、彼女は不幸の連続でもある。これだけの宝に恵まれていながら、彼女を支援した人は少ないように思う。これは、私の私的な考えだが、彼女の実力をもってすれば、大抵のコンクールで優勝できるはずである。10代半ばで凄い演奏を連発しとるのだ。しかし、彼女はコンクールの受賞歴が私が調べた限りない。何故、彼女の周囲の者がコンクールへの出場を薦めなかったのか?甚だ疑問である。次に彼女は独身である。だが、何故かネットで調べると彼女は既婚となっとる。私の考えでは、彼女は私より10歳以上若いはずなのだ。しかし、ネットで調べると彼女の年齢は私より年上になっとる。更には、ドイツなどで彼女の偽者が彼女に成り代わって勝手にコンサートを開いとる。恐るべきことに、共演の指揮者やオーケストラもグルなのだ。YouTubeでもなんと、偽者が堂々とピアノを弾いてエレーヌ グリモーを名乗っとるのだ。普通のリスナーではたぶん気付かない。顔立ちが似とるからだ。しかも、まさか、こんな素晴らしい女性に対して、そんな酷いことをするヤツがいるとは誰も思えないからだ。更に言うと、そんなことを堂々とやって許されるわけないからだ。だが、ドイツのみならず彼女の元々の母国フランスでもそういったことが起こっとる。まあ、ドイツはロマの国であるわけだが。フランスに至っては、自分の国に素晴らしい才能を持って音楽を聴く人を幸せにしとる女性がいても、その女性を不幸のどん底に陥れるような奴等がいる国ということである。こう書くと、出身国であるフランスも相当な悪者だという印象を受ける。フランスもロマに乗っ取られて久しい国である。南フランスなどは、特にウジャウジャおる。画家のビンセント.ファン.ゴッホが良い例。結局、フランスという国に対する感情が変化した。だからという訳ではないが、フランス料理に対する考えも私は少しネガティブなものに変化した。一方、戦後のドイツに対する感情はかつては良い印象であったが、現在は真逆になった。ドイツ人は真面目だと言われとる。本当なのか?真面目の意味が違うのでは?真面目に悪いヤツの言うことを実行しとるということではなかろうか。また、日本にも彼女の敵がいる。彼女は「幸せのレッスン」という本を執筆した。私は彼女の演奏を聴く度に彼女の凄さを痛感する。そして、本を著しとるのなら、読んでみたいと思い購入した。しかし、全然読み進むことができない。それは初っ端から敵の怪しい雰囲気が漂っとるから真偽を確かめながら読み進めなくてはならないからだ。少しそれを告発しよう。文章が始まる前に、一文が書き据えられていた。それは、W.H.オーデンという詩人が作った詩の一節である。愛についての詩である。内容はこうである。「If equal affection cannot be, let the more loving one be me.」意味は、「相手が同じ想いで自分を愛せないのなら、その人を自分と同じくらいの想いにさせよう」といった内容。だが、本の翻訳者は何故かこう書いた。「同じ強さで愛しあうことができないのなら、私は愛されるよりもより強く、愛する者になりたい」。一体これはどういうことなのだ!?意味がまるで違う。前者は、「愛はお互い同じような想いで相手に送るものだ」という意味である。一方翻訳者の方は「自分と同じように相手が愛してくれなくても、私は相手を更に強く愛する」という意味。なんだそれは!あまりにも酷いではないか!?自分に対して酷すぎる。実際彼女が引用した内容と違うではないか。そして、本を読み進めていくと、これは本当にしっかり訳されとるのか?というような疑問を呈する内容が出てくる。内容を変えてるだろ?としか思えない。何故、お前たちは彼女に酷い仕打ちをし続けるのか?分かるだろ!?地獄へ落ちていくことが!少し激高してしまった。失礼。
さて、少し落ち着いて彼女の演奏について再び書いていこう。長くクラシックを聴いとると、曲の良さだけではなく演奏家による曲の解釈の違いが分かってくる。同じ曲でも実に様々な解釈がある。昔から伝わってきたオーソドックスな解釈を堅持する演奏家もいれば、真新しい解釈をする演奏家もいる。オーソドックスな解釈でも、前人の真似をそのままするのではなく、更に磨きをかけた演奏をしたりする。その場合、曲の良さが更に際立ち感動が押し寄せてくる。真新しい解釈でも、聴く者が全く想像できない演奏を聴いたとき、やはり感動が押し寄せてくる。では、演奏にどれほどの違いがあるだろうか?実は、それほど違いを聴き取れるわけではない。何故なら、当然楽譜があるのだから、全く違う曲にはならない。だから、解釈が全編に亘って違うわけではないというのが普通である。であるから、部分部分での解釈が違うという演奏が普通である。で、凄い演奏家というのは、その部分部分での違いが曲全体に亘って統一性があるのだ。曲全体の解釈が全く違うということである。そのような演奏に触れると、曲そのものに対するイメージが大きく変化するし、凄い感動が押し寄せてくる。クラシックファンの多くが、この感動を求めとるといっても過言ではない。そのような演奏家に該当するのが、まさしくエレーヌ.グリモーさんである。彼女の演奏を聴く度に驚かされる。曲のイメージが毎回覆されるからだ。もちろん、良い方向に。私はベートーヴェンが大好きな作曲家ではあるが、ピアノ協奏曲第4番だけがどうも苦手意識があった。だが、彼女の演奏を聴いて全くそれが無くなった。ピエール=ロラン.エマールの演奏を聴いたときも衝撃だったが、彼女の演奏はもっと凄い。ベートーヴェンがもし彼女の演奏を聴いたら何と言うであろうか。絶賛以外考えられない。そして、驚くべきことに、その曲をレコーディングをしたときの彼女の年齢は、たぶん20歳前後であろう。ジャケットの写真を見れば、10代な気もする。そのCDに収録されとるピアノ・ソナタも同様に凄い演奏である。モーツァルトの曲も同じように素晴らしい。
クラシックを聴いとると、ライヴで凄い演奏をしたとしても、聴衆がその凄さを理解できなければ、指揮者、ソリスト、オーケストラに賛辞は送れない。当然、感動しなかった演奏に賛辞は送れないからである。実際、凄い演奏というのは、その場で理解できるとは限らない。理解できたとしても演奏家の解釈を全て理解できる可能性は極めて低い。だから、後々CDとして発売されたとき、何度も聴くうちに凄さを痛感することが多い。だが、エレーヌ.グリモーの演奏は、そうではない。もちろん、一発で彼女が表現する全てを理解するのは不可能だが、彼女は、曲の神髄を我々に聴かせてくれる演奏をする。だから、初回で結構凄さに気付ける演奏が多い。このような演奏家は、まずいない。指揮者でいうと、バーンスタインやカラヤンのようなマエストロクラスであり、ピアニストなら、だれであろうか?想像できない。だから、彼女の右に出るピアニストは私の中では存在しない。